唐沢なをき『独房の中』 月刊ガンダムエース 2004年10月号掲載

IN PRISON

■パロディと元ネタ探しの重なりの間で

 漫画は紙に描かれたメディアに含まれるので、各作者の描き癖といったものが必ず紙面に現れますし、それを抜きにして漫画を語ることはできません。竹熊健太郎×相原コージの名作「サルでも描けるまんが教室」でも触れられていたように、擬音やオノマトペ、効果線、吹き出し、コマ割り、あるいは欄外のちょっとした部分にも作者の癖が現れます。「サルまん」にはいくつもなるほどと思わされる記述がありますが、その中でも漫画家から読者へのメッセージを分類した回は、その着眼点と内容に感心したものです。

 今の主流の週刊誌や月刊誌ではほとんど見られなくなりましたが、かつては読者へのメッセージを漫画の中に書いておくことは珍しくはありませんでした。20年位前の少女漫画をよく読むと、登場人物の背景の看板や机の上に無造作に置かれた新聞や書籍の文字の中に誰かへのメッセージを見つけることができます。小さめのひらがなやカタカナ、あるいはローマ字で書かれたそれらのメッセージは、注意深い読者へのプレゼントです。読者への日頃のお礼、漫画家自身の愚痴、同業者への伝言など、その内容はさまざまですが、漫画家個人の心情や考えが透けて見えるので、パーソナルなメディアとしての漫画のあり方としては好ましいのかもしれません。

 山本直樹が昔描いた短編に、売れない漫画家が知り合いの女性に出演してもらって撮った裏ビデオで金を儲けようとする話がありました。販売の経路をまったく持たない漫画家は宣伝の方法として漫画内の読者へのメッセージを利用します。漫画の最後のページの一コマに「無修正の裏ビデオを作ったから欲しい人は××の住所まで為替で××円送れ」と書いておいたところ、全国から為替が何百と送られてきて、漫画家とその友人はビデオ(もちろんDVDが登場する何年も前の話なのでVHSビデオ)のダビングを一日中繰り返して、あぶく銭を儲けます。

 山本直樹のこの短編のような読者へのメッセージの利用例は少し極端ですが、これに似たようなことは今も頻繁に行われています。マイナーなジャンルの漫画家の作品の欄外にそっけなく書かれた http://〜 をコンピュータに打ちこめば、その漫画家の個人サイトが見つかります。そのサイトには必ずこういうページがあるはずです。「同人誌情報」、あるいは「同人誌通販のお知らせ」。

 話が大きくずれてしまいました。そういう読者へのメッセージはより個人的な作品、日記漫画や近況報告漫画、エッセイ漫画に吸収されて今では一つのジャンルにすらなっています。読者から送られてきた(実際は作り話も多々あるとは思いますが)投稿を基にした実録系の漫画雑誌などもありますし、漫画家自身の周囲で起きた出来事を描いていく私小説ならぬ"私漫画"とでもいうべきものを読んだことが誰しもあると思います。細かいネタを身近から探せる上に、誰もが思っていることをその漫画家なりに咀嚼することができるので、エッセイ風の漫画は描き手しだいでおもしろいものとなるのは確かです。でも、わざわざ作者本人と思わしき人物が登場し、読者に何事かを語らなくても、ある種のメッセージを読者に伝えることはできます。その方法の一つがパロディです。

 現在、週刊アスキーで連載している「電脳なをさん」で、作者の唐沢なをきはさまざまなパロディ作品を描いています。藤子不二雄の「まんが道」、田川水泡の「のらくろ」、松本零士銀河鉄道999」、あるいはTVドラマ「怪奇大作戦」などに、コンピュータ関連の時事ネタを盛りこみ、さらに細かいネタをこれでもかというほど投入しています。このパロディの形式の延長として月刊ガンダムエースに掲載された読みきりが『独房の中』です。

 この短編はTVアニメの「機動戦士ガンダム」を基にして安彦良和の描いている「機動戦士ガンダム THE ORIGIN」の1シーンを、花輪和一の「刑務所の中」に似せて再現させているので、そのどちらも知っていることが読者に要求されます。花輪和一は錆び付いた実銃を手に入れ、それを改造したことで1994年12月に逮捕され、約三年の時間を拘置所と刑務所で過ごしました。この経過は詳細に「刑務所の中」に描かれていますが、単調とも言える日々の生活の中で繰り返される食事や労働の様子は、普通の生活に慣れた人間にはかなり新鮮なものです。あの細部の描写を真似してみたくなる気持ちはよくわかります。

 花輪和一的な表現を唐沢なをきが選んだ理由は明白です。よく出来たパロディ作品は、オリジナル作品への敬意と感想と批評にあふれています。この作品は唐沢なをきから花輪和一へ向けた讃辞です。塩分のない食事、使いづらい水洗便所、運動不足、独房に閉じこめられたアムロはことごとに不満をもらします。それがいちいち花輪和一的な表現で描かれているのがおかしくもあり、巧いものです。

 この短編を理解するには「機動戦士ガンダム」と「刑務所の中」を知っている必要があります。どちらも人口に膾炙した作品なので、その両方を知らない人はあまりいないとは思いますが、この難しすぎない作品の選択も有能なパロディ作家の一つの条件です。わかる人だけがわかればいい、という態度をとる作り手と受け手は少なからずいます。でも、それは間違いです。あまりにマニアックすぎるネタを作品に投入する漫画家がたまにいますが、その多くは作品の内容に中身がありません。読者の数は一定ですから、作品を深い方向に突き詰めていくと読者はふるいにかけられ、理解できる人数がどんどん減っていきます。その数の減り方は指数的です。最初は理解できる側にいた人もすぐに理解できない側になります。作り手=受け手ではないのですから、マニアックな方向に走る作り手のメッセージは、海に流したボトルの中の紙片と同じです。

 漫画家は読者にメッセージを伝えようとします。パロディ作品ももちろんその方法の一つですが、そのメッセージは簡単に宛先不明になりやすいのです。有能な作り手とそうでない作り手の差は、受け手にメッセージを確実に届ける方法を知っているかどうかです。唐沢なをきがその有能な作り手の一人であるのは確かです。

榛野なな恵 『ピエタ』全二巻 2000年 集英社刊

PIETA

■俗世間からの逃避、そして繰り返される幸福な結末 
 映画やドラマを観ると、登場人物の衣装やメイク、使われる小道具、実在の風景などから、それが撮られた時期についておおよその見当をつけることができます。たとえば1995年に撮影された作品を1985年や2005年に撮られたものだと勘違いすることは稀です。カメラに写されたものは嘘をつくのが難しいからです。

 これは漫画も同様です。唐沢なをき田川水泡手塚治虫松本零士などの大御所の漫画をそっくり真似て描くことはありますが、それを30年以上前のものだと思うことはありません。カケアミの線の細かさやフキダシの形、場合によっては写植のフォントの違いがその時代の漫画でないことをはっきりと指し示します。

 ただし、例外もたくさんあります。漫画をあまり読まない人の描いた作品はコマ割りがかっちりとしていることが多く、大ゴマを多用することが主流の現在の漫画界では古臭い印象を読者に与えます。青木雄二などがその典型です。

 キャリアが長く、同じような雑誌で同じような作品を書き続けている漫画家も、ある時期から絵の変化が止まり、描かれる世界が固定されます。いつの時代ともしれない髪型と服装の登場人物が出てくる現代劇を誰しも読んだことがあると思います。紫の薔薇の人も、バラを送る前に指摘してあげればいいのに。

 時代からかけ離れた描写や表現は、時としてその漫画家の個性として読者に強い印象を与えます。一見して誰が描いたのかすぐわかる漫画のほうが、無個性の描き手のものよりも当然いいに決まっています。ただ、こういう作者の個性が作品のテーマや問題意識にまで及んでしまうと話は別です。

――過去に心に問題をかかえていたために、2年遅れで高校に通っている比賀佐保子は、何事にも超然とした態度をとる青木理央という同級生と知り合います。二人は互いに運命的なものを感じ、急速に親しくなっていきます。理央は家族から離れ一人暮らしをしていますが、特に継母との関係が悪く、それが彼女の心を深く傷つけています。その苦しみから逃れられないことを知った理央は、ビルからの飛び降りを選びます。――

 この『ピエタ』の読後感は不思議なものです。佐保子も理央も心に傷を負っていますが、その描写は漠然したものです。執拗に理央の心理が描かれますが、単に家族の不和の域を出ていません。父親と継母が自分に冷たく当たっていることが鬱状態心理的な原因となっているようですが、大昔の通俗心理学の解説のような図式がそのまま用いられています。「鬱状態は心的な抑圧が原因、云々……」。

 榛野なな恵の代表作『Papa told me』を読んだ人で、作者の視点に違和感と苛立ちを感じない人はまずいないでしょう。知世とそのお父さんはかなり恵まれた生活をしているのに、俗世間や社会との軋轢を感じています。知世が理発な子どもだから、お父さんが有名な作家だから、母親が早くに亡くなっているから、さまざまなことが二人の前に立ちふさがります。でも、それは正当であるがゆえに、取るに足らないことです。

 榛野なな恵が主題としているもの一つに、世間や社会、あるいは家族や友人からの言われなき疎外があります。『ピエタ』では継母が、『Papa〜』では俗世間が、自分たちを色眼鏡で見て、何かれと悪意を差し向けてきます。たしかに、それはそうなのかもしれません。無遠慮な視線や意固地な態度は人を充分に傷つけえるものです。それらの悪意(あるいは間違った善意)に対し、榛野なな恵の漫画では妥当な結論を用意しています。

 そこでは小さな共同体が慰めの場となります。佐保子と理央は二人で共に暮らすことで擬似家族を作ります。知世とお父さんは二人の生活をそのまま続けていきます。最新作の『パンテオン』では、ラストシーンで社会から少しずつ疎外されている4人が集まり、文字通り家族のような共同体をつくり、幸福な未来が示唆されて終わります。

 でも……、と読者の誰もが付け加えたくなる終わり方です。彼らは自分の前に立ちふさがる障害をそのままにし、同じ価値観の人間との生活を選びます。話し合い、戦うべき他者が見えているのに、あえてそれを無視します。いつのころからか、榛野なな恵の漫画にはこの小さな共同体を作るための無理な舞台設定が目立つようになりはじめました。最初は疎外している他者が見えていたのでしょう。しかし、何度も同じ主題を描くうちに、今はもう作者に具体的な敵は見えていないようです。問題意識が純化されていく過程で残ったのは、疎外される自分、それだけです。

 榛野なな恵に限らず、何度も同じような話を好んで描く漫画家は往々にして自家中毒に陥ります。もう、わたしには榛野なな恵の漫画がいつごろ描かれたものか、判断することができません。個性というものの存在をもし信じるなら、10年前と今と10年後に同じ印象を与える漫画家に個性はまったくありません。『卒業式』のような作品をまた再び、そう思う一読者のわたしの感想ももちろん間違っているのです。

いしいひさいち『現代思想の遭難者たち』 2002年 講談社刊

MP

 ■4コマ漫画にストーリーは必要か、その答えはいしいひさいちにあり 
 今回から見出しをつけてみます。自分が何を書いていたか、すぐに忘れてしまうものですから。

 大き目の本屋の漫画コーナーには必ずと言っていいほど4コマ漫画雑誌が何冊も置かれています。場所によっては、そのコーナーの三分の一以上を4コマ漫画雑誌が占めていることも珍しくありません。ある特定の雑誌社が中心となる4コマ誌を一つ創刊します。それからしばらくするとその増刊枠で似たような名前の雑誌がもう一つ創刊されます。またしばらくするともう一誌、それからもう一誌……と、いつの間にか読者が把握できないほどの4コマ漫画雑誌が出版されています。

 今の4コマ誌に載るような作品は、日刊新聞に載るような旧態依然とした4コマ漫画とはかなり違っています。漫画的に設定されたキャラクターを登場させ、ゆるやかなストーリーの流れを生み出すことが必須の条件となっています。そのため、4コマでの起承転結は必ずしも必要ではなく、8コマ、場合によっては16コマで一つの話が閉じられることも多いのです。

 こういう4コマ漫画を描き始めたのが誰なのか、それについてはよくわかりません。いがらしみきお蛭子能収の描いたような漫画が元になっているのかもしれませんし、もう少し後の吉田戦車相原コージが描いていた××シリーズのような、同じキャラクターを使った4コマ漫画をより発展させたものなのかもしれません。

 わたしが具体的にこういうストーリー性のある4コマ漫画を意識したのは、小池田マヤの「バツイチ30ans」を雑誌連載中に読み始めた時からです。30歳を超えた自立した女性が日々の生活の中で感じる葛藤や不安を描き出したこの作品に対して、読者の好みは分かれるかもしれませんが、毎月読むに値するだけの質を持っていました。しかし、その一方で常に疑問もありました。この漫画ははたして4コマ形式である必要はあったのでしょうか。

 ストーリー4コマ漫画に対してこの疑問は常につきまといます。普通なら1ページで描かれる内容を分解しそれを4つのコマに移し替えただけのもの、画面構成の必要のない絵コンテのような漫画、という印象をぬぐえません。おざなりの背景の前に、描きこみの少ない上半身だけの人物、そしてそこにセリフが大きくかぶさります。

 4コマ界にも今の漫画の流れが確実に入りこんでいることは明らかです。キャラクターの個性、時にそれは"萌え"と呼ばれるもの、が重要視され、起承転結のある話や描きこんだ絵といったものはキャラクターの個性を浮き立たせるために排除されます。電撃系やガンガン系の漫画はかなり前から4コマ界に参入していました。あずまきよひこあずまんが大王」はその代表的なものだといえます。

 その一方で、昔からの4コマ漫画家も細々と描き続けています。その代表格がいしいひさいちです。そのいしいの2002年の単行本「現代思想冒険者たち」は現代思想家をテーマとした4コマを集めた単行本です。いしいは講談社の「現代思想冒険者たち」という一人一冊の解説本の月報に4コマ作品を描いていました。時には諧謔と笑いで、時には辛らつな批評で、現代思想家とその思想のキーワードを巧みに漫画に取りこんでいます。

 たとえば、フーコーは自身の髪が薄いことを常に気にしていました。ある日思い立って彼は剃刀で自分の頭を剃り上げてしまいます。その日から頭髪のことを思い悩むことはなくなった、と彼は言っていたそうです。もちろん、いしいがそのフーコーの言葉を見逃すわけはありません。ハゲを隠すこと=権力からの自由な主体となること、いしいはそう解釈します(言うまでもないですが、これはギャグです)。

 もう一つ、1946年、ヴィトゲンシュタインと論争中のポパーは、ヴィトゲンシュタインが暖炉の火かき棒をもてあそんでいるその態度に怒り、それを強い調子でなじりました。これは実際にあったことです。いしいはこの記述も見逃しません。家に帰ったポパーの元にヴィトゲンシュタインがたずねてきます。取り次いだポパーの妻に「非礼をあやまりたい」と告げたヴィトゲンシュタインの言葉に、ポパーはこころよく許す気持ちになりますが、妻は続けて言います、「あやまりたいと……火かき棒を持って」。ポパー反証可能性ならぬ"反撃可能性"のためにバットを用意します。

 「現代思想冒険者たち」は研究者が一冊ずつ書いているので、その内容に多少のバラつきがあります。思想の要点だけをまとめられている人もいれば、その人の生涯が思想とからめて語られている人もいます。いしいの漫画が面白くなるのはその思想家の生活や言行がネタになるときです。これら著名な思想家がいしい漫画の典型的なキャラクターとなるさまはまったく見事です。当然ですが、政治家もスポーツ選手も、そして現代思想家もそれぞれ確固たる個性を持っています。彼らのちょっとした言葉や行動が4コマに組みいれらるとき、ストーリーではなくキャラクターが物語をつくっていきます。それは今の4コマ漫画と似て非なるもの、萌えや内輪受けギャグからはるかに遠いものです。今のストーリ−4コマに物足らない点は、4コマで語れないことを無理に4コマにする、その形式への無自覚さにあります。普通の漫画は普通の漫画の形式で描く、それはとても単純な話です。

末広雅里『VIRTUL MASTER』 単行本「HEARTACHE」収録 1993年 白夜書房刊

VM

 1980年代の終わりから1990年代の初め、ちょうど昭和が終わって平成に入ってからの美少女漫画界を大きく変質させた作品が二つあります。一つは山本直樹「BLUE」、もう一つは遊人「ANGEL」です。古株の読者なら憶えているでしょうが、90年代のはじめまではポルノ漫画にあの「成年コミック」の黄色のマークはついていませんでした。

 この一連の流れをわたしはあまり憶えていないので詳述はできませんが、宮崎事件の余波でポルノ規制への社会からの要求が強まっていたところで、規制賛成派の議員などに槍玉に挙げられたのが山本直樹の「BLUE」でした。

 「BLUE」の連載はビックコミックスピリッツの増刊誌、「ANGEL」は週刊ヤングサンデーだったので、厳密に言えばこの2作品はポルノ漫画ではなかったのですが、ポルノ規制派の人間が具体的な攻撃目標をようやく発見したために、これら一般誌連載の単行本のSEX表現が広く有害図書問題としてフレームアップされることになりました。

 この問題は現在の松文館裁判(漫画家のビューティ・ヘアの作品が「ポルノ漫画としては絵が上手すぎる(!)」という理由で逮捕された事件)にもつながっています。もちろん、こういう表現規制の問題に簡単に結論がでるはずもなく、ポルノ漫画の規制やゾーニングに対する司法判断は今もって曖昧になっています。

 わたしは森山塔(いうまでもなく山本直樹が美少女漫画を描くときのペンネーム、別名・塔山森)の熱烈な読者なので、「BLUE」については語りたいことが山ほどあるのですが、それはいつかの機会に譲りましょう。1990年代のはじめ、森山塔以外にも注目すべきポルノ漫画の描き手が何人かいました。その一人が末広雅里(現在のペンネームはひらがなで"すえひろがり")です。

 白夜書房(現在のコアマガジン)の雑誌・ホットミルクは何人かの傑出した描き手を生みました。新貝田鉄也郎大暮維人田沼雄一郎天竺浪人、そして末広雅里。彼の一冊目の単行本「HEARTACHE」と二冊目の「EXHIBITION」を読んだ時の驚きを今でも憶えています。末広雅里の作品には漫画として読めるだけの内容があり、その上に露出・トランスセクシャル・同性愛・SMなどの要素をたくみに作品内に取りこんでいました。今の目から見ると稚拙に思えるかもしれませんが、ただのポルノではないということが本当に読者を驚かせたのです。

 その一冊目の単行本「HEARTACHE」に収められた短編『VIRTUL MASTER』はネットワーク上の仮想空間での擬似SEXがテーマになっています。この短編がホットミルクに載ったのは1991年4月号、インターネットの一般的な普及やWindowsの登場にはまだしばらくの間があります。すでに士郎正宗の「攻殻機動隊」などでネットを介したSEXの様子は描かれてはいましたが、日常に近い世界でこういう場面が描かれるのは珍しいことでした。

 実をいえば、この末広雅里の短編をわたしはすっかり忘れていました。それを思い出させてくれたのはビックコミックスピリッツ連載の花沢健吾ルサンチマン」のネットゲームの描写です。まるで現実世界と見紛うほどリアルになったゲーム世界にアクセスするプレイヤーたちは、『VIRTUL MASTER』に登場するものと同じような体をぴったりと包む黒いスーツと大きめのゴーグルを身に着けています。それらのガジェットが奇妙な既視感とともに連想的に末広雅里の作品に結びつき、何年も忘れていた作品を思い起こさせてくれたのです。

 『VIRTUL MASTER』はネットワークを介したSEXを描くのが目的ではなく、リアルな仮想世界での公然露出を描くことに重点がおかれています。続編の『VIRTUL VICTIM』では性別を偽る相手との男女を逆転させたSEXが描かれます。時間的にはもう10年以上前のものですが、ネットワークについてこまごまと説明していないので、この二つの短編の内容はあまり古びていません。また、あくまで大人の娯楽としてネットサービスが描かれているので、ネットにはまる人間が一般的にいえば駄目な人間であるというような残酷な真実は無視されています。

 きちんとしたネット利用を行えば人には言えないような自身の性癖を満足させることができる、この二つの短編は素朴にそういうメッセージを発しています。しかし、そんなことが可能だと思っている人はおそらくいないでしょうし、作者自身もそうは思っていないでしょう。現実は「ルサンチマン」に描かれている世界に近づいており、社会性のない人間がコンピュータ相手に自分の欲望を満足させるか、あるいは、一時的な性交渉の相手をさがすための情報がネットを埋め尽くしています。ビデオデッキの普及がアダルトビデオの流通と切り離せないように、ネットも当然エロとは切り離せません。というより、メディアとポルノは根の部分ではかなりつながっているものです。

 普通のSEXで満足できない性癖を持っている人間が、さまざまな方法を使って自身の欲望を解消していく描写はポルノでしか描けないものです。末広雅里は今も露出や精神的な支配/被支配をテーマとした作品を描き続けています。最近の作品の質には少し疑問もありますが、やはりこの人にしか描けないものがあるのは確かです。性癖や性嗜好によっては、自分の望む形のSEXがそのままポルノに登場しているように感じることがあります。わたしの望む性の形式を、誰かが紙の上に、あるいは、モニターの中に表現しているとしたなら? そのときに多少の孤独と欲求とルサンチマンが解消されているのかもしれません。

夏蜜柑『sienna』 単行本「東京夜空」収録 1999年 ワニマガジン社刊

Siren

 少女漫画家の谷川史子が自身の単行本のおまけページで描いていましたが、ある程度の年齢から上の世代の人間が今の少女漫画を読むと、その内容に違和感をおぼえるようです。DJコンテストで優勝するのが目標という男の子が登場する作品を読んだ谷川は、冗談めかして「これが今どきの少女漫画か!」と描いています。

 実を言えば、今の高校生よりも谷川史子の年齢の方にはるかに近いわたしも少し違和感を感じます。少女漫画に王道があるとするなら、ヒロインが惹きつけられるのは、スポーツ(野球やサッカーではなく陸上や水泳)か芸術(絵画、造形、音楽、バレエなど)に打ち込む男子でなければならなかったからです。わたしが読んだ中でもっとも驚いたのは、ダンス・ダンス・レボリューションに夢中になる男の子を好きになる少女の物語でした。

 古くから少女漫画を読んでいる読者たちも今の作品の流れには違和感をおぼえるようです。再販されたり文庫化されたりする作品を何度も読み返しては郷愁にふけり、70年代や80年代の特定の作品にはとても詳しいのに、現在の作品には驚くほど関心を示さない古株の読者は実に多いのです。

 たしかに、そういった読者は同じ作品を何度読み返しても飽きることはないのかもしれません。しかし、読み手はいいとしても漫画家は常に新しい作品を描き続けなければなりません。その時、今の少女漫画のような作品を描けない漫画家はどうすればいいのでしょう?

 端的に言ってしまえば、昔ながらの少女漫画はその内容を微妙に変化させ、大人の女性向け雑誌や少年誌、青年誌に掲載の場を移しました。岩館真理子樹なつみ、吉野朔美や逢坂みえこが青年誌で連載していた作品を憶えている人もいるかと思います。その流れの中で、少女漫画的な素養を持った漫画家がさまざまな場に登場するようになりました。その一人が90年代の後半に成人系の快楽天に短編を描いていた夏蜜柑です。

――両親を事故で亡くした兄と妹は、その日まで自分たちが血がつながっていることを知らずに生きてきました。その事故から三年、共に暮らしていた祖母も亡くなり、兄妹は二人だけの家族となります。兄は祖母が遺したものを整理しますが、妹はそれを受け取ろうとしません。養女である自分にはこの家のものは何も受け取れない、そう言うのです。――

 この短編『sienna』は、血のつながらない兄と妹がそれを受け入れ、お互いを男女として意識し、兄妹ではなく違った形の家族として生きていこうとする話です。とはいえ、状況説明の多くは兄のモノローグでなされ、二人の関係の変化もぼやかされて描かれているため、一見するとまとまりのない話と感じてしまいます。これはまさに少女漫画的な省略の方法で、男と女がお互いに愛情を感じていれば言葉も、説明も、そして結末もいりません。二人が愛情を確認できればその時点で話は終わりです。もちろん、快楽天はエロ漫画雑誌なので、その確認の方法はセックスしかありませんが。

 夏蜜柑が快楽天に登場したのは1997年頃。当時はまだ夏蜜柑の描くような作品を載せるだけの余裕が成人系の漫画雑誌にもありました。あるいはこの快楽天が、村田蓮爾が表紙を描き、陽気婢伊藤真実が連載を持てるような雑誌だったからなのかもしれません。これは誤解されると困るので書き添えておきますが、エロ漫画雑誌に一般の雑誌に載るような作品が描かれる傾向を「漫画家を育てる」とか「ヴァリエーションが増える」と肯定する人もいますが、それは間違いです。きちっとしたポルノを描けない漫画家の職業意識の低さ、あるいは編集者の自己満足ぶりを批判すべきです。一時期のホットミルク(80年代中盤〜90年代後半まで存在した雑誌、これにはいつか触れます)を過剰に褒める人が多いのは困ったことです。

 夏蜜柑が現在商業誌でほとんど描かないのは残念なことですが、しかたのないことなのかもしれません。一時期、他の分野に積極的に進出した少女漫画系の漫画家の多くは、居場所を見つけられず元の場所に戻りました。ポルノに進出した少女系の漫画家はより今の時代に合わせるため、積極的にポルノ描写を取り入れています。残念ながら夏蜜柑はそのどちらもできません。今の少女漫画からも、今のエロ漫画からも、どちらからも遠く離れてしまっているからです。

 短編『sienna』は夏蜜柑の作品の中でもっともわたしの好きなものです。ちょっとした日常の中で愛情を確認するためのセックスのソフトな描写、それがとても心地よく感じられます。これは一種の郷愁です。昔の作品を繰り返し何度も読み返す人たちも、こういう気持ちを感じているのでしょうか。

冬目景『サイレンの棲む海』 1999年 ビジネスジャンプエクストラ掲載

Siren

 漫画というのはフィクションですから、どんなに写実的な描写がなされていようとそれは現実とは異なります。当然といえば当然なのですが、写真を模写でもしないかぎり、描き手の癖やものの捉え方がどうしても絵の中に反映されてしまいます。

 これは面白いもので、正統的な絵画の教育を受けた描き手ほど、その作者独特の癖を色濃く画面に現わします。普通一般に思われているのは、教育が個性を押しつぶす、訓練は個性を消してしまうというような考えですが、実際には違います。絵の描き方を自己流で学んだ人ほど、どこかで見たような無個性の絵を描いてしまうことが多いのです。

 90年代の前半に登場した冬目景の絵には、絵画の教育を受けている人独特の癖があります。人物の適度な崩し方、主線の強弱のつけ方、背景の省略など、言葉として説明するのは難しいのですが、この作者独特の描写が作品の中にあふれています。

――就職も決まらず、特にやりたいこともない大学生・ソノダは時期はずれの寂れた海水浴場へ短い旅に出ます。その季節外れの海辺で、地元の旅館の跡取りのハヤセという女性と出会います。ハヤセは親しくなったソノダに「この町から連れていってほしい」と頼みます。――

 台詞のある登場人物は、ソノダ、ハヤセ、ホテルの受付の男、ソノダの友人の四人だけ。それ以外の人物は点景としてまばらに描かれているだけです。話らしい話はなく、ただ寂しげな女性の顔だけが繰り返し何度も描かれています。

 この短編に登場する人物はもはや冬目景作品の類型となっています。目的も目標もない男と夢を見るように生きている女の出会いから始まり、途中で少しの希望と現実が語られ、未来や先のことは曖昧なままに話は終わっていきます。現実の冷徹さが二人に押しかかることも、今とは違う新しい人生が始まることもありません。

 冬目作品では現代の日本がそのまま描かれていようとも、確かな現実感というものが奇妙なくらいありません。曖昧さが画面全体を包みこみ、薄い膜を張っているようです。なので、物語の背景や小道具をしっかりと描かなければならない作品、たとえば江戸時代(と思われる日本)を舞台とした『黒鉄』や、20世紀初期のヨーロッパ(と思われる場所)を舞台とした『LUNO』は、どちらもあまり出来のよくないファンタジーとなってしまっています。

 「この町から連れていってほしい」というハヤセに、ソノダはホテルの男から聞いていたハヤセの姉のことを話し説得します。旅の男と町を出ていった姉、自分は姉のようにはなれないとわかっているハヤセはその断りをすぐに受け入れ、二人は別れます。

 結局、ハヤセもソノダも現実に押しつぶされ、夢や希望といったものをあきらめたのでしょうか? 答えは否です。物語の最初から描かれていたように、もともと二人ともそんなものは持っていません。この短編では何も始まらず、何も終わっていないのです。こういう傾向は現在連載中の『イエスタデイをうたって』にも顕著です。生活や人生の目標はもとより、欲望や愛情にもひたすら優柔な態度をとる登場人物たち、その彼らが今の東京で行う群像劇は時代を(あまりよくない意味で)超越しています。

 一見すれば誰にでも冬目景が描いていることのわかる画面の中で、曖昧な意志を持った人物が同じ台詞を何度も繰り返しています。いつか現実が彼らを打ち倒すのでしょうか、それとも、夢から覚めるのでしょうか。おそらくそれはないでしょう。終わりのない日常がゆるやかに繰り返されている間に、読者も、そして作者も同じように年をとっていきます。現実が忍び寄るのは漫画の外の世界の方です。では、本当に厳しい現実にさらされているのは誰なのでしょう?

宇仁田ゆみ『ラブライトマン』 2002年 シルキー増刊スパイス掲載

LoveLightMan
 漫画家が漫画業界を描いた作品というのは多少なりとも読者の興味を引きます。業界実録ものとして現実の漫画界を描いているものでもないかぎり、登場人物や状況設定はもちろん作者の作りごとになりますが、それでも漫画家としての作者の実体験がどこかに反映されていますし、漫画に関する作者の見方や考え方がうっすらとわかることが多いのです。

 宇仁田ゆみ『ラブライトマン』はシルキー増刊スパイスに読みきりとして掲載、単行本『男女』に収録されています。作者の後書きによると、このシルキー増刊は女子向けH系まんが誌ということですが、恋愛の発展した状態でのセックスを描いているのでまったく普通の少女漫画作品となっています。

――新人エロ漫画家のソブエ(祖父江)は、アシスタントとバイトを行いながら、年に何回かエロ漫画雑誌に作品を発表しています。ソブエと同棲しているミワコは、頼りなくも頑張るソブエと暮らすことに喜びを感じていますが、彼の描いた作品を読んだことがありません。ソブエにはセックスの時に照明をつけたがる癖があり、不審に思ったミワコは問いただします。ソブエは自分のエロ漫画のモデルとしてミワコの体を観察していると話しますが、それを聞いたミワコは恥ずかしさから怒りを感じてしまいます。――

 この新人エロ漫画家のソブエという男の描写については曖昧で不思議な感じがします。確かに生身の人間の方がモデルとしての融通は利きますが、ミワコに漫画のモデルになってもらっている描写はありません。それにソブエは資料と称したグラビア写真やエロ本を大量に持っています。しかし、その一方で自分のエロ漫画はエロくない、まろやかだとミワコに告げてもいます。これはどういうことでしょうか?

 1990年代の終わりに巻き起こったネオ劇画ブームで、エロ漫画はそれ以前のものとの間に断層ができてしまいました。性器を明確に描写すること、現在のエロ漫画家にはそれが必須の技能となったのです。なので、自分の彼女の体をエロ漫画のモデルにするというのは、普通に考えれば彼女の性器を模写しているということです。ソブエにはそれができそうにありません。ちょっとした話に少しのエロを混ぜた雰囲気重視の作品、ソブエはそういう毒にも薬にもならないようなエロ漫画を描いているのでしょう。
 でも、そういう傾向の作品というのはすぐに飽きられてしまいます。ソブエは実在の漫画家にたとえれば陽気婢(この人にはいつか触れます)のように、ポルノを描く一方で一般のマイナーな雑誌に描くようになるのかもしれません。あるいは、よりハードなポルノ描写に挑むのかもしれません。

 宇仁田ゆみが読者に見せたエロ漫画家のイメージは今はもうないものですが、それが一種のファンタジーとして漫画の中に残っているのは面白いことです。日活ロマンポルノでポルノ映画を撮っていた中原俊金子修介周防正行といった映画監督のように、ソブエもポルノを描いていた自分の過去を振り返るようになるのでしょうか。

 ソブエはミワコに今まで見せたことのなかった自分のエロ漫画を読んでもらいます。そこにはソブエから見た美化されたミワコが描かれています。自分をもっと肯定して自信を持つべきだ、とのソブエの言葉にミワコは心を動かされます。間違いなく彼女はだまされていますが、この少女漫画的な自己肯定はハッピーエンドに欠かせないものです。駄目男のスケベ心が少女の勇気につながる話は計算されていてうまいものです。自己肯定と現状無視。これも少女漫画のテーマの一つだとわたしは考えています。