末広雅里『VIRTUL MASTER』 単行本「HEARTACHE」収録 1993年 白夜書房刊

VM

 1980年代の終わりから1990年代の初め、ちょうど昭和が終わって平成に入ってからの美少女漫画界を大きく変質させた作品が二つあります。一つは山本直樹「BLUE」、もう一つは遊人「ANGEL」です。古株の読者なら憶えているでしょうが、90年代のはじめまではポルノ漫画にあの「成年コミック」の黄色のマークはついていませんでした。

 この一連の流れをわたしはあまり憶えていないので詳述はできませんが、宮崎事件の余波でポルノ規制への社会からの要求が強まっていたところで、規制賛成派の議員などに槍玉に挙げられたのが山本直樹の「BLUE」でした。

 「BLUE」の連載はビックコミックスピリッツの増刊誌、「ANGEL」は週刊ヤングサンデーだったので、厳密に言えばこの2作品はポルノ漫画ではなかったのですが、ポルノ規制派の人間が具体的な攻撃目標をようやく発見したために、これら一般誌連載の単行本のSEX表現が広く有害図書問題としてフレームアップされることになりました。

 この問題は現在の松文館裁判(漫画家のビューティ・ヘアの作品が「ポルノ漫画としては絵が上手すぎる(!)」という理由で逮捕された事件)にもつながっています。もちろん、こういう表現規制の問題に簡単に結論がでるはずもなく、ポルノ漫画の規制やゾーニングに対する司法判断は今もって曖昧になっています。

 わたしは森山塔(いうまでもなく山本直樹が美少女漫画を描くときのペンネーム、別名・塔山森)の熱烈な読者なので、「BLUE」については語りたいことが山ほどあるのですが、それはいつかの機会に譲りましょう。1990年代のはじめ、森山塔以外にも注目すべきポルノ漫画の描き手が何人かいました。その一人が末広雅里(現在のペンネームはひらがなで"すえひろがり")です。

 白夜書房(現在のコアマガジン)の雑誌・ホットミルクは何人かの傑出した描き手を生みました。新貝田鉄也郎大暮維人田沼雄一郎天竺浪人、そして末広雅里。彼の一冊目の単行本「HEARTACHE」と二冊目の「EXHIBITION」を読んだ時の驚きを今でも憶えています。末広雅里の作品には漫画として読めるだけの内容があり、その上に露出・トランスセクシャル・同性愛・SMなどの要素をたくみに作品内に取りこんでいました。今の目から見ると稚拙に思えるかもしれませんが、ただのポルノではないということが本当に読者を驚かせたのです。

 その一冊目の単行本「HEARTACHE」に収められた短編『VIRTUL MASTER』はネットワーク上の仮想空間での擬似SEXがテーマになっています。この短編がホットミルクに載ったのは1991年4月号、インターネットの一般的な普及やWindowsの登場にはまだしばらくの間があります。すでに士郎正宗の「攻殻機動隊」などでネットを介したSEXの様子は描かれてはいましたが、日常に近い世界でこういう場面が描かれるのは珍しいことでした。

 実をいえば、この末広雅里の短編をわたしはすっかり忘れていました。それを思い出させてくれたのはビックコミックスピリッツ連載の花沢健吾ルサンチマン」のネットゲームの描写です。まるで現実世界と見紛うほどリアルになったゲーム世界にアクセスするプレイヤーたちは、『VIRTUL MASTER』に登場するものと同じような体をぴったりと包む黒いスーツと大きめのゴーグルを身に着けています。それらのガジェットが奇妙な既視感とともに連想的に末広雅里の作品に結びつき、何年も忘れていた作品を思い起こさせてくれたのです。

 『VIRTUL MASTER』はネットワークを介したSEXを描くのが目的ではなく、リアルな仮想世界での公然露出を描くことに重点がおかれています。続編の『VIRTUL VICTIM』では性別を偽る相手との男女を逆転させたSEXが描かれます。時間的にはもう10年以上前のものですが、ネットワークについてこまごまと説明していないので、この二つの短編の内容はあまり古びていません。また、あくまで大人の娯楽としてネットサービスが描かれているので、ネットにはまる人間が一般的にいえば駄目な人間であるというような残酷な真実は無視されています。

 きちんとしたネット利用を行えば人には言えないような自身の性癖を満足させることができる、この二つの短編は素朴にそういうメッセージを発しています。しかし、そんなことが可能だと思っている人はおそらくいないでしょうし、作者自身もそうは思っていないでしょう。現実は「ルサンチマン」に描かれている世界に近づいており、社会性のない人間がコンピュータ相手に自分の欲望を満足させるか、あるいは、一時的な性交渉の相手をさがすための情報がネットを埋め尽くしています。ビデオデッキの普及がアダルトビデオの流通と切り離せないように、ネットも当然エロとは切り離せません。というより、メディアとポルノは根の部分ではかなりつながっているものです。

 普通のSEXで満足できない性癖を持っている人間が、さまざまな方法を使って自身の欲望を解消していく描写はポルノでしか描けないものです。末広雅里は今も露出や精神的な支配/被支配をテーマとした作品を描き続けています。最近の作品の質には少し疑問もありますが、やはりこの人にしか描けないものがあるのは確かです。性癖や性嗜好によっては、自分の望む形のSEXがそのままポルノに登場しているように感じることがあります。わたしの望む性の形式を、誰かが紙の上に、あるいは、モニターの中に表現しているとしたなら? そのときに多少の孤独と欲求とルサンチマンが解消されているのかもしれません。