夏蜜柑『sienna』 単行本「東京夜空」収録 1999年 ワニマガジン社刊

Siren

 少女漫画家の谷川史子が自身の単行本のおまけページで描いていましたが、ある程度の年齢から上の世代の人間が今の少女漫画を読むと、その内容に違和感をおぼえるようです。DJコンテストで優勝するのが目標という男の子が登場する作品を読んだ谷川は、冗談めかして「これが今どきの少女漫画か!」と描いています。

 実を言えば、今の高校生よりも谷川史子の年齢の方にはるかに近いわたしも少し違和感を感じます。少女漫画に王道があるとするなら、ヒロインが惹きつけられるのは、スポーツ(野球やサッカーではなく陸上や水泳)か芸術(絵画、造形、音楽、バレエなど)に打ち込む男子でなければならなかったからです。わたしが読んだ中でもっとも驚いたのは、ダンス・ダンス・レボリューションに夢中になる男の子を好きになる少女の物語でした。

 古くから少女漫画を読んでいる読者たちも今の作品の流れには違和感をおぼえるようです。再販されたり文庫化されたりする作品を何度も読み返しては郷愁にふけり、70年代や80年代の特定の作品にはとても詳しいのに、現在の作品には驚くほど関心を示さない古株の読者は実に多いのです。

 たしかに、そういった読者は同じ作品を何度読み返しても飽きることはないのかもしれません。しかし、読み手はいいとしても漫画家は常に新しい作品を描き続けなければなりません。その時、今の少女漫画のような作品を描けない漫画家はどうすればいいのでしょう?

 端的に言ってしまえば、昔ながらの少女漫画はその内容を微妙に変化させ、大人の女性向け雑誌や少年誌、青年誌に掲載の場を移しました。岩館真理子樹なつみ、吉野朔美や逢坂みえこが青年誌で連載していた作品を憶えている人もいるかと思います。その流れの中で、少女漫画的な素養を持った漫画家がさまざまな場に登場するようになりました。その一人が90年代の後半に成人系の快楽天に短編を描いていた夏蜜柑です。

――両親を事故で亡くした兄と妹は、その日まで自分たちが血がつながっていることを知らずに生きてきました。その事故から三年、共に暮らしていた祖母も亡くなり、兄妹は二人だけの家族となります。兄は祖母が遺したものを整理しますが、妹はそれを受け取ろうとしません。養女である自分にはこの家のものは何も受け取れない、そう言うのです。――

 この短編『sienna』は、血のつながらない兄と妹がそれを受け入れ、お互いを男女として意識し、兄妹ではなく違った形の家族として生きていこうとする話です。とはいえ、状況説明の多くは兄のモノローグでなされ、二人の関係の変化もぼやかされて描かれているため、一見するとまとまりのない話と感じてしまいます。これはまさに少女漫画的な省略の方法で、男と女がお互いに愛情を感じていれば言葉も、説明も、そして結末もいりません。二人が愛情を確認できればその時点で話は終わりです。もちろん、快楽天はエロ漫画雑誌なので、その確認の方法はセックスしかありませんが。

 夏蜜柑が快楽天に登場したのは1997年頃。当時はまだ夏蜜柑の描くような作品を載せるだけの余裕が成人系の漫画雑誌にもありました。あるいはこの快楽天が、村田蓮爾が表紙を描き、陽気婢伊藤真実が連載を持てるような雑誌だったからなのかもしれません。これは誤解されると困るので書き添えておきますが、エロ漫画雑誌に一般の雑誌に載るような作品が描かれる傾向を「漫画家を育てる」とか「ヴァリエーションが増える」と肯定する人もいますが、それは間違いです。きちっとしたポルノを描けない漫画家の職業意識の低さ、あるいは編集者の自己満足ぶりを批判すべきです。一時期のホットミルク(80年代中盤〜90年代後半まで存在した雑誌、これにはいつか触れます)を過剰に褒める人が多いのは困ったことです。

 夏蜜柑が現在商業誌でほとんど描かないのは残念なことですが、しかたのないことなのかもしれません。一時期、他の分野に積極的に進出した少女漫画系の漫画家の多くは、居場所を見つけられず元の場所に戻りました。ポルノに進出した少女系の漫画家はより今の時代に合わせるため、積極的にポルノ描写を取り入れています。残念ながら夏蜜柑はそのどちらもできません。今の少女漫画からも、今のエロ漫画からも、どちらからも遠く離れてしまっているからです。

 短編『sienna』は夏蜜柑の作品の中でもっともわたしの好きなものです。ちょっとした日常の中で愛情を確認するためのセックスのソフトな描写、それがとても心地よく感じられます。これは一種の郷愁です。昔の作品を繰り返し何度も読み返す人たちも、こういう気持ちを感じているのでしょうか。