榛野なな恵 『ピエタ』全二巻 2000年 集英社刊

PIETA

■俗世間からの逃避、そして繰り返される幸福な結末 
 映画やドラマを観ると、登場人物の衣装やメイク、使われる小道具、実在の風景などから、それが撮られた時期についておおよその見当をつけることができます。たとえば1995年に撮影された作品を1985年や2005年に撮られたものだと勘違いすることは稀です。カメラに写されたものは嘘をつくのが難しいからです。

 これは漫画も同様です。唐沢なをき田川水泡手塚治虫松本零士などの大御所の漫画をそっくり真似て描くことはありますが、それを30年以上前のものだと思うことはありません。カケアミの線の細かさやフキダシの形、場合によっては写植のフォントの違いがその時代の漫画でないことをはっきりと指し示します。

 ただし、例外もたくさんあります。漫画をあまり読まない人の描いた作品はコマ割りがかっちりとしていることが多く、大ゴマを多用することが主流の現在の漫画界では古臭い印象を読者に与えます。青木雄二などがその典型です。

 キャリアが長く、同じような雑誌で同じような作品を書き続けている漫画家も、ある時期から絵の変化が止まり、描かれる世界が固定されます。いつの時代ともしれない髪型と服装の登場人物が出てくる現代劇を誰しも読んだことがあると思います。紫の薔薇の人も、バラを送る前に指摘してあげればいいのに。

 時代からかけ離れた描写や表現は、時としてその漫画家の個性として読者に強い印象を与えます。一見して誰が描いたのかすぐわかる漫画のほうが、無個性の描き手のものよりも当然いいに決まっています。ただ、こういう作者の個性が作品のテーマや問題意識にまで及んでしまうと話は別です。

――過去に心に問題をかかえていたために、2年遅れで高校に通っている比賀佐保子は、何事にも超然とした態度をとる青木理央という同級生と知り合います。二人は互いに運命的なものを感じ、急速に親しくなっていきます。理央は家族から離れ一人暮らしをしていますが、特に継母との関係が悪く、それが彼女の心を深く傷つけています。その苦しみから逃れられないことを知った理央は、ビルからの飛び降りを選びます。――

 この『ピエタ』の読後感は不思議なものです。佐保子も理央も心に傷を負っていますが、その描写は漠然したものです。執拗に理央の心理が描かれますが、単に家族の不和の域を出ていません。父親と継母が自分に冷たく当たっていることが鬱状態心理的な原因となっているようですが、大昔の通俗心理学の解説のような図式がそのまま用いられています。「鬱状態は心的な抑圧が原因、云々……」。

 榛野なな恵の代表作『Papa told me』を読んだ人で、作者の視点に違和感と苛立ちを感じない人はまずいないでしょう。知世とそのお父さんはかなり恵まれた生活をしているのに、俗世間や社会との軋轢を感じています。知世が理発な子どもだから、お父さんが有名な作家だから、母親が早くに亡くなっているから、さまざまなことが二人の前に立ちふさがります。でも、それは正当であるがゆえに、取るに足らないことです。

 榛野なな恵が主題としているもの一つに、世間や社会、あるいは家族や友人からの言われなき疎外があります。『ピエタ』では継母が、『Papa〜』では俗世間が、自分たちを色眼鏡で見て、何かれと悪意を差し向けてきます。たしかに、それはそうなのかもしれません。無遠慮な視線や意固地な態度は人を充分に傷つけえるものです。それらの悪意(あるいは間違った善意)に対し、榛野なな恵の漫画では妥当な結論を用意しています。

 そこでは小さな共同体が慰めの場となります。佐保子と理央は二人で共に暮らすことで擬似家族を作ります。知世とお父さんは二人の生活をそのまま続けていきます。最新作の『パンテオン』では、ラストシーンで社会から少しずつ疎外されている4人が集まり、文字通り家族のような共同体をつくり、幸福な未来が示唆されて終わります。

 でも……、と読者の誰もが付け加えたくなる終わり方です。彼らは自分の前に立ちふさがる障害をそのままにし、同じ価値観の人間との生活を選びます。話し合い、戦うべき他者が見えているのに、あえてそれを無視します。いつのころからか、榛野なな恵の漫画にはこの小さな共同体を作るための無理な舞台設定が目立つようになりはじめました。最初は疎外している他者が見えていたのでしょう。しかし、何度も同じ主題を描くうちに、今はもう作者に具体的な敵は見えていないようです。問題意識が純化されていく過程で残ったのは、疎外される自分、それだけです。

 榛野なな恵に限らず、何度も同じような話を好んで描く漫画家は往々にして自家中毒に陥ります。もう、わたしには榛野なな恵の漫画がいつごろ描かれたものか、判断することができません。個性というものの存在をもし信じるなら、10年前と今と10年後に同じ印象を与える漫画家に個性はまったくありません。『卒業式』のような作品をまた再び、そう思う一読者のわたしの感想ももちろん間違っているのです。